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No.142(2017/9) 「坐」

 

No.142

 立派な人は死後、後になるほど神格化され、さまざまなエピソードが付加されて本質から離れていくことがあります。そのため仏教の教祖釈尊も遠い存在で、実存した人と思われなかったこともありました。たった750年余り前の親鸞聖人さえも、恵信尼文書が大正10年に発見されるまでは、存在さえも疑問視されたことがあります。
 釈尊の教えの中で最も古い経典の一つスッタニパータ(suttanipāta−ブッダのことば−)は、中国では漢訳されず、そのため日本の仏教では長い間ほとんど知られてこなかったのですが、仏教学的には極めて重要な経典です。スッタは経糸、ニパータは集成の意味です。つまり本筋の経糸に多くの緯(横糸)が入り、布が形成されることによります。そのため初期の経典は短い詩句の集成でもって記されています。この最初期の経典には釈尊の生の言葉や深い信念を感じます。スッタニパータには何回となく、坐することが説かれています。坐とは禅定のことです。人は煩悩に包まれています。禅定することで無になるということは、凡人には不可能です。禅(禅定)は、坐することによって仏教徒にとって自己を省みることです。しかし、禅が仏教の全てではないのは明らかです。スッタニパータ第2章331句には「起てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。」388句目には「一人で退いてひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ。」真逆のようでありますが、どちらも同じ、必要なことです。仏教は内省し、全て我が身に置きかえて考えるものです。「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と道元禅師はおっしゃっていますが、生死が一大事であって、老や病は生きていれば当たり前のことです。
 私が学生の頃の学長は曽我量深先生でした。先生は91才でしたが、聡明でした。当時学生運動が盛んで、たいしたことでもないのに、何にでもナンセンスと叫んでいましたが、先生は一言「これはコモンセンスですよ」とおっしゃいました。現在老いは世の中では用無しのように言われて、負のように思われていますが、老いは人類の歴史と同じであって、叡智の蓄積であり、次代に繋ぐために必要なものであると思えます。人生に定年はありません。心と身体は同体です。老いに鞭打ってでも心を深めねばなりません。過去の出来事にこだわらずに過去を現在に生かさねばなりません。今ほど「古いものにとらわれない。新しいものに惑わされない。」という釈尊の言葉を考えなければならないと思っています。

畠中光享(1970年文学部卒)
日本画家・インド美術研究者

 

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